『だるまさんがころんだ』燐光群

 9月2日に見ました。


 物語性よりもメッセージ性が強い演劇で、演劇鑑賞会では珍しいタイプだと思います。「現代性がない」と批判してきた私から見れば、まさに現代の世界の課題のひとつを突きつけた演劇(これは芝居というより演劇といいたい)ですので、それはそれで評価したいと思います。
 テーマは地雷です。この演劇では地雷に関わる事実関係を知ることは出来ませんが、会場で配布された資料からそれを知ることは出来ます。
 地球上には一億数千万個が埋設されており、事実上それを完全に取り除くことは出来ないようです。地雷の種類は本当に多く、資料を読むと対戦車というより、人間を殺傷するために作られたと思えるものが少なくありません。例えばこの演劇に出て来る「ちょうちょ地雷」は空中散布用で、子どもが手に取れるほど小さくすぐには爆発せずある程度の力が加わったところで爆発します。「ジャンプ型地雷」は飛び上がってパチンコ球が数百も飛び出すといいます。
 人間はなんと頭がいいのでしょう。人間にどれだけ効率的に痛みを与え、殺すことが出来る道具を、嬉々として作っている様子が想像できます。
 そういうことを知って、この演劇を見れば、一つ一つに様々な暗喩に満ちているのを感じることが出来ます。
 例えば地雷を作る職人「無言の父」とその家族です。平凡な労働者は自分の仕事に誇りを持っていますが、それは人を不幸にすることを知りません。家族も関心を持っていないのです。その家族の娘は通り魔に殺されます。そうまるで突然地雷に触れたように死にます。何の脈絡もない話が地雷につながってきます。
 あるいは地雷を家のぐるりに埋めたいといったヤクザの組長は「核抑止力」にすがる人々です。菅前首相もそうでしたが、歴代日本の首相はそれに凝り固まっているし、自民党民主党を支持し、国土を守るためには軍隊が必要だと思っている人も、多かれ少なかれ地雷の役割を肯定していると思います。
 その子分は地雷を調べまわっているうちに、義足の女に出会い、彼女は地雷撤去の仕事で全身を吹き飛ばされて、体のほとんどを人造部品に置き換えられるという話になります。これは何を想像させるでしょう。自然を壊し続ける人間を批判しているのでしょうか。
 だるまの様になった女とのセックスもちらりと聞かせます。人間に潜む残酷さも感じさせます。あるいは人造物フェチズムでしょうか。
 戦場の村の話やイラクに派兵された自衛隊の話は、それ自体で面白く感じますが、彼らの上にあるものたち(いわば空を飛ぶ戦闘機やそれに指示を与えるもの、それらから利益を得ているものたち)に刃を突きつけるものになっているかといえば、ちょっと疑問です。
 そうするにはかなりの想像力の飛躍、事実関係を知っていることが必要です。しかしそんな彼らは、この演劇を見て改めて納得する必要があるのでしょうか。やはり何も知らない人が、ピンと来るような演劇である方がいいのです。
 この演劇は、短い話がいくつも折重なって、一つの方向に収斂します。しかし、この演劇だけを見ていて、それを納得する人は少ないのではないですか。地雷の非人間性だとか、人間の愚かさは十分に感じますが、それが「だるまさんがころんだ」という鬼ごっこに通じているというのは、なかなか大変です。
(追記)
 9月24日に鑑賞会の打ち上げがあり、それに参加しました。運営を担当した人々ですから、当然、評価する声が多くありました。しかし演劇の中まで踏み込んだ批評はありません。それぞれの場面で惹かれた人などが挙げられただけです。
 25日の友達と会うと、この演劇に対しては「戦場の村」の描き方が不愉快、ということです。すべての話を類型化しすぎているということです。たしかに、この演劇は多くの賞を取っていますが、現代を描いている割に、リアルな鋭さ、というのがありません。それは映画の特徴で、演劇は抽象化されたリアルであるかもしれない、と思いました。