『八日目の蝉』『ヤコブへの手紙』『いのちの子供』

『幕末太陽伝』と『劍岳 点の記』
 久しぶりにDVDを借りて『幕末太陽伝』(1957)と『劍岳 点の記』(2009)を見ました。どちらもいい映画だと思いますが、DVDではその魅力は伝わってきません。『劍岳 点の記』は実話に基づく測量の地味な話ですが、最大の魅力である、現地ロケの素晴らしい映像は小さな画面では伝わってきません。痩せ尾根を重い荷物を歩くシーン、雪渓を転がり落ちるシーン、どれも命がけでしょう。監督兼キャメラマン木村大作さんが最も伝えたかった画面の迫力はDVDでは出せないのです。
 『幕末太陽伝』は昔の映画ですが、最近、落語の「居残り佐平次」を聞いたもので、この映画が落語のネタをもとに作っていると聞いていたから、どんな風に撮っているか見てみようと思いました。これは映像の美しさは関係ないのですが、DVDでは乗って見ることはできません。
ヤコブへの手紙』林と湖の涼しい空気 18日パルシネマで『八日目の蝉』『ヤコブへの手紙』を見ました。邦画と洋画の組み合わせで、どちらかといえば『八日目の蝉』の方がベストセラーの映画化ということで宣伝量が多くて、私もそれに引かれて見ました。
 しかし『ヤコブへの手紙』の方が小品ながらほのぼのした暖かさを感じさせる映画で、よかったですね。「蝉」と比べると短い話なのに人間の深みが違うと、言っておきましょう。


 簡単に紹介しながら、面白さを言います。
 盲目の牧師ヤコブのもとに、殺人を犯し刑期を終えたレイラがよこされる。彼女は牧師のところに届いた手紙を読み、返事を書く手伝いをする仕事を与えられる。
 彼女は意地悪な中年女だ。盲目の牧師の手伝いをあまりしないし、手紙を捨てたりする。
 ところがある日を境に手紙が来なくなる。ヤコブは神と人々の橋渡しこそが天職で、大勢の人に頼られていると思っていた。それが誰も頼ってこない状態に置かれたとき、彼は自分が人々の手紙によって生かされていたことに気づく。
 落ち込むヤコブを励まそうと、レイラは自分の話を手紙として話をする。そして、その話から、レイラをここに呼び込んだのはヤコブではなく、夫をレイラに殺された姉だったということを知らされる。意地悪なレイラに何か動揺が起きる。
 そしてヤコブの死。映画はそれでお仕舞い。上映時間も短いし、話も起伏に富むというものではない。不細工で意地悪な中年女の心の底にある優しさに触れる、という簡単さだった。
 でもフィンランドは本当に人口密度が低い、と思った。ヤコブの家、そこから少し離れている教会にも周辺に集落らしきものがない。郵便配達がやってくる以外に、ほとんど人影を見ることがない。それでも人は心豊かに暮らしていける、それをしみじみと感じさせる。
 日本は人口減少がこれから劇的に生じる。私はその影響を大変心配している。しかしフィンランドを見ると、人口密度の低い生き方を考えれば、また、それなりの過ごし方もあるようだ。
『八日目の蝉』焦点の当て方が違うような
 不倫の関係にあった女が流産し、相手の男の妻の子を連れ去り、4年間わが子のように育てた、という事件を題材として、17年後を現在において、その当時のことを再現フィルムのようにしながら、その女と子供を中心に描いた。


 映画は、その子ども、現在は20の女子大学生が自分もまた不倫の子どもを身ごもったことから、当時のことを思い出す、自分探しの旅へと行く、そんな様を描く。

 八日目の蝉とは、普通の蝉は七日間で死ぬのに、もう一日余分に生きたという意味、のようです。それは、わが子を連れ去られた母、連れ去った女、子どもすべてに言っているのかな。
 人生に対して、それは違うように思う。第一、蝉の一生は7日とか8日と違う。幼虫時代を含めて3年から17年、成虫になっても一月ぐらいは生きる、といわれる。
 そんな映画と違うことを批判してどうすると思われるでしょうが、私は事件があった後だけの人生ではなく、前も含めての人生、という風に人の生き方を捕らえるべきだと思うので、そうなってしまうのです。だから、この映画はとても薄っぺらなもののように思います。
 しかも連れ去られた期間が子どもにとって重要なように言っていますが、むしろ帰ってきてからの17年の方が、人の心に対する影響は大きいように思います。だから、実はまともに論評するに値しない、といっておきましょう。
 原作はもしかしたら、もっと深みのあるものかもしれませんが、それは読んでいません。
 [ヤコブ]の方は、やはり深みがありました。
『いのちの子供』人間の愚かさと強さか
 劇映画よりも、時代はドキュメンタリですね。今村太平の言っていた時代になったのか、と思います。
 何のことかといえば、彼の「映画の眼−文字から映像の文化へ」(1992年)という評論集を読めば、作られた映像よりも、現実を記録した映像の力の優位性をいっていますし、さらに「誰もが映画をうつせつくることが出来るようにならなければ、やはり映像の文明はありえない」とまで断じたのです。(この評論集については2012年発行の「映画批評」に書く予定です)


 難病のパレスチナ人の子どもを、イスラエル人の支援を得てイスラエルの病院で治療したという、事実を映画に仕立てています。テレビ記者が最初からそのつもりで撮っていますから、劇映画と見誤るような、編集となっています。
 イスラエルパレスチナは、長い間戦争状態になっている。核兵器まで持つイスラエルの圧倒的武力弾圧に対して、パレスチナ側は自爆テロを仕掛けている。この映画でも子どもの母親は、困難な子どもの治療を願う一方で殉死も当然という。
 しかし、この子どもの治療費を匿名で支援するイスラエル人はパレスチナとの戦争で子どもを亡くしているし、多くのイスラエル人が支援している。あるは検問所も若干の手加減をしているように見える。パレスチナ人も「イスラエルプロパガンダ」と批判する人もいるが、身近な人々は子どもが生き延びることを温かく見守る。
 終わり近く、子どもの治療も終わってガザに帰った後に、ガザに対して大規模なイスラエルの攻撃があった。この一家を含めて子どもの生死がわからなくなった。
 人間はそんな馬鹿なことをやっている。