大橋巨泉、永六輔に関わって

新聞の切り抜きは、いまも続けています。記事は一杯溜まりますが、それをここに中々書けません。
忙しい、というのもありますが、色々と考えますが、テーマとして何を書くか、という核心的なことが頭の中でまとまらないのです。
でもそんな綺麗なことを言うよりも、支離滅裂になっても適当に書くほうが大事だと思います。
久々にコラムの紹介をします。
[朝日]8月16日〜19日の文化・文芸欄「笑いにのせて」が大橋巨泉永六輔とかかわりのあった、萩本欽一五木寛之、ピーコ、久米宏の話を採録しています。
それを、感想を交えながら紹介します。
萩本欽一さn
「言葉の壁 ぶち抜いた先輩」「戦争を体験『もっとはみ出していい』」が縦横の見出しになっています。
永六輔さんは言葉の達人だったね」と最初の出会いから、しびれるような言葉を貰います。そして永さんの笑いが「笑ってしまう」に気づいた彼は、素人を出す番組を作り出し、それらが視聴率30%になります。
青島幸男さん、野坂昭如さんなんかも自分の考えをひと味違う言葉で表現する人たち」戦争を体験して「いろんな悲しみをまともに受けたのに、戦争を忘れようとしなかったのはすばらしい先輩だった」といいます。
政治には関心もあり意見もあるといいます。それは是非どこかでしゃべってほしいと思いました。
五木寛之さん
見出しは「大衆文化 表に引き上げた」「真面目なこと 常にジュークで」です。
「当時、大学を出てテレビやラジオに行くのはアウトサイダーの感覚です。歌謡曲やジャズは低俗な大衆文化とされて、知識人が言及することはなかった時代です。永さんや大橋さんは、そういう低いジャンルと見られていたものを表に引っ張り出してきた」そして彼がそこに行ったのは「戦後のレッドパージの影響があったと僕は見ています」彼らは屈折して、頭を押さえつけられて「そのエネルギーがサブカルチャーに向かった」といいます。
そして「彼らの表現が『書き言葉』ではなく『話し言葉』だった」ブッダやキリスト、ソクラテスように語った。
「『どうせこの世は冗談』をスピリットにしていた人たちが、冗談を言っている余裕がなくなった時代」という認識を示します。
ピーコさん
「『戦争いやだ』心にしみた」「笑いながら怒ればいい 私も続ける」という見出しです。
永さんは「沖縄からは東京が見えるけど、東京からは沖縄が見えないんだよ」と言っていたそうです。40年前に知り合い「永さんが年に3、4回、沖縄に通うようになって、ひめゆりの塔などの戦跡も一緒行くようになった」「永さんがいなかったら、戦争がどんなものかも知らずに生きていたと思う」というピーコさんの「師匠」です。
「NHKの追悼番組に出て『永さんは戦争が嫌だって思っている。戦争はしちゃいけないと。世の中がそっちのほうに向かっているので、それを言いたいんでしょうね』と言ったら、そこがばっさり抜かれていた」と。これが、多くのテレビ番組の正体をではないでしょうか。
永さんから「炭鉱のカナリア」になれ、と言われたそうですが、「笑いながら怒ったりしていればいいの」というように、どこでもいつでもさえずってほしいと思います。
久米宏さん
「波風を立てる それがテレビ」「お上は必ずしも正しくないぞ」という見出しです。
永六輔さんにはいつも怒られていました」と言う書き出しです。久米さんは、67年にTBSに入ってすぐに体調を壊し、70年に始まった永さんのラジオ番組から仕事を再開します。その5年間で「ものの考え方や仕事のやり方、ネタを仕込んだ」、それが後のテレビ「ザ・ベストテン」などに生かされます。
大橋巨泉のラジオ番組「昨日の続き」のヘビーリスナーであり、ニューステーションが最も影響を受けた番組は「間違いなく11PM」といいます。
今のニュース番組は「ガチガチの台本を読まされている」「安全運転が過ぎます」「僕もそうですが、永さんや巨泉さんたちも、どこかで波風を立てたいという思いがあった」「ミスしたからって矛先が鈍ってはいけない」そして「こうした思いは、今の若い人にこそ受け継いでほしい」としめくくりました。
テレビは
これを読んで、テレビはもう終わりかな、と思ってしまいます。
小沢昭一さんを含めた中年御三家がいて、巨泉さんなど、権力になびかない芸人、芸能人がたくさんいました。それがいまやどこのチャンネルをひねっても出てくる多くは電波芸者幇間と思われる人が「大御所」になっています。情けない限りです。