「私の松本清張論」辻井喬 新日本出版社

 辻井さんの評論を読んで、この方法論とか分析の仕方を学びたいと思った。そこから映画評論はどう展開すればいいのか、真剣に考えたい。
 「一作家について本にまとめたのはこれが初めて」といいますが、松本清張という魅力的な作家の、そのスケールの大きな、戦後の文学に大きな影響を与えた、本質的な魅力に迫っていたと思う。新日本出版社の久々のヒットではないか。
 まず「国民作家」という切り口で、吉川英治山本周五郎司馬遼太郎と比較する。そして彼らを「『国民文学』と言うような特別な文学ジャンル」はなく「その時代に即して大勢の人びとの意識を反映しているので広く読まれる作品」と定義つける。「歴史的に見ると時代が激動し、逆に文学が停滞、低迷しているように見えるときに、不思議と『国民文学』ということが言われると言う事実」。しかも近代文学は伝統に根ざしていないジャンルで「一代限りで完結」しているから「大衆性の質」が伝統となっていないと言う。
 その中で松本清張の役割を「近代文学が欠落させた部分を補う役割を果たした」と評価する。
清張の根元 
 そしてそこから松本清張の魅力の解明が始まる。
 「彼につけられている『社会派』と言う呼称の本質は、題材が社会的だという以前に、弱いもの、差別されるものに対するシンパシーがあっての社会派」であり「プロレタリア文学の流れの中」にある、といいながらプロレタリア文学とは言い切れない、という。「善と悪の葛藤を描きながら、それを決して登場人物の善玉か悪玉か」に落としこまない。さらに登場人物が「心境に逃れることによって、やがて諦観へと導かれると言う結論を認めていません」といい、「反俗精神と世俗性が同居」し、それは「処女作を書き上げたときから清張が世の中の諸相を知り尽くしていた」と平野謙の評論から引用する。いわば「清張の”私”は最初から社会化されていた」ということ。
その文学について
 清張に対する文学者の評価として、その対極にいる三島由紀夫の言を引いてくる。その前に「常に物事を巨視的にとらえ理性の奥行きを示している」と評価している大岡昇平の清張への批判は「はっきり異郷の人に対している」とか彼が「あまり読んでいない」と、松本清張が文壇からはみ出した存在であることを示している。
 そして当然のことながら三島由紀夫は清張を拒否している。「文学として認められない」という全否定となる。三島と清張の違いは「清張は現実の事件を題材にして『真実はこうだ』と展開する」三島は「現実の事件を逆立ちさせて、完全に『自分の世界』を現出させ」る。
 全共闘の評価にしても、清張は「現実世界をとらえることのできない」存在として無視しているが、三島は「天皇制批判をしなければ一緒にやれる」という違いがある。「清張は三島が政治運動化としては取るに足らない作家」という評価。
 司馬遼太郎松本清張を比べて「二人は共に『国民文学者』と言えるような多くの読者を持った」が「文学観、歴史観と言うことになると、二人はかなり違っています」という。
 清張自身は司馬との違いを「彼はやはり歴史上の人物を素材として書いているわけね。だから人物が司馬遼太郎のものになっている」「僕はそうことには興味がない。ですから特定の人物について書いたものはあまりない」そして「ぼくは上から人間を描いたことがない」といっている。
 それにたいして司馬については「もともと無名だった人物が努力と持ち前の才覚で指導者になってゆく過程を追跡する場合が多かった。無名で下積みで苦労している人にはあまり焦点を当てていません」といい「それは結局生き方の違いに行きつくかもしれません」と切り分けている。
 好きな作品をあげ「点と線」について「企業の問題や、経済社会的な事件が作品の素材となることは例外的」「それぞれの登場人物が個性を持っている点にあります」という評価をする。
歴史観
 すでに歴史的な出来事になっていますが、「共創協定」の仲介者となった清張の政治的立場は「ファシズムの危機意識」「彼は明らかに明治以後、権力の強制もあって形成された風土になじまない作家だった」「正義の感覚によって大衆性を獲得した文学者」ということを鮮明にした。
「民主主義を掲げた権力の嘘を見抜いていました」「彼の眼差しは終生曇ることがなかった」「口では日本の独立を唱え、だから憲法を『改正』して軍隊を持つと主張しているタカ派勢力が、最もアメリカと言う権力に忠実で、日本の青年をアメリカのアジア支配のために提供するであろうことも庶民の勘として認識していた」と言う評価。
 この本の中で清張論を借りながら辻井喬歴史観も明らかにされます。それ以下のような言葉で出てきました。
「日本の歴史の中を流れている基本的思想の特徴は、平和主義と平等主義」「大衆は自分の外のもの、とくにメディアに左右されているのです。わが国のメディアは極端といっていいくらい権力に弱く、世論を指導する見識などありません」「文学の世界だけに住んでいる人が、いかに政界や財界の生理についてしらないか」。鹿鳴館は「精一杯の見栄を張った、いじましい装置」。明治維新は「下級武士階層が起こしたクーデターによって形だけの近代国家」
と言うような本でした。いやいい本です。