「クリスマス・キャロル」劇団昴

 およそ芸術と言うものは「何をどう描くか」というのが、出発点だと思う。その描き方の上手下手が現実的な伝える力であって、そこをおざなりで良いとは思わないし、目的と手段は密接に関わってくると思っている。(極端な話、いいことを言っているのだから、話し方が下手でも良いとは思わない。逆に良いことを言うのに下手な話し方をするのは、犯罪に近い(私がそうだと思う)。)
 と非常に分かりにくい、手前勝手な言い方をしてしまった。要は、芸術作品はまずテーマを選ぶことが大事だ。その次にその描き方、話し方で、何によってそのテーマを具体化するかということ。それから次に描く力をつける必要がある、ということだ。
 違うと言う意見もあるだろう。私の映画や芝居を見、本を読むときに評価したり、感動するときはそういう基準だと言っている。その観点で評価する。
 それからいうと、この「クリスマス・キャロル」はだめと言うことだ。
 ディケンズがこの本を出版したのは1843年。その時代のロンドンはまさに原作のとおりであっただろうと思う。スクルージという冷酷無慈悲、守銭奴のモデルをつくり、それを批判し、彼の心を変えたいと思うのは非常にすばらしいし、そのことで世の中が変わる、と言う主張も立派だと思う。キリスト教的道徳観かもしれないが、その美しさに変わりはない。原作を読んでいないがきっと筆力もすばらしく、読む者をひきつけるに違いない。
 しかし今この芝居を、そのまま演じるのは、私は納得がいかない。一人の金持ちが「心を入れ替え」て貧しいものに施しをしても、良い世の中にならないことは、ディケンズの時代から250年たって、いやと言うほど、私たちは経験している。この芝居を作った人は、そこのところをどう理解しているのか聞きたい。
 福田恒存が作った劇団だからといっているわけではない。それは機関誌を読むまで知らなかったし、芝居を見てから機関誌のここのところを読んだ。制作者の言う「一緒に芝居を観たり、話をしたりできない閉塞的な状況。それを打破するのはやはり演劇の力」と言うのは同意できても、「ケチで頑固な主人公スクルージ、でも私たちの中にも潜んでいる。精霊に誘われて次第に開心して(心を開いて)いくところを観てもらいたいですね」には反論したい。
 ケチで頑固(私のことを言われているようで不愉快ではあるが)であっても世の中を観る目は養うことはできる。しかしこの芝居を観ても、世の中はまったく見えてこない。演劇の命はそこにあると私は思っている。新劇に関わっている人の考え方は違うのだろうか。はたして、これは今、現在の日本を憂いて作った芝居だろうか。
 ワーキングプアは、本人の心がけの問題であったり、店の主人の心配りのなさではないことは明らかだと思っている。ディケンズが気づかなかったことを、現代演劇は表現できない、というような目で、私は芝居を観ない。
 歌って踊って、回り舞台の作り方は感心した。それは書いておく。でも芝居の命はそれではないと思う。
 これは12月10日(土)の神戸映劇鑑賞会の例会を観て書いた。