正月の社説読み比べ

 それほど分析したわけではありませんが、全国紙と神戸新聞の1日付けの社説を読みました。それで、短い感想を書きます。
 まあ全国紙が、ここまで御用新聞化しているとは、正直思いませんでした。もっと現実を見て、圧倒的多数の読者の味方をするものだと思っていました。しかしあきれるばかりに財界とアメリカ政府の提灯持ちをしています。
 まず、誰もが少しは「左」という幻想を持っている「朝日」ですが、「今年こそ改革を、与野党の妥協しかない」という見出しです。これを見ただけで、やはりそうかと思いました。
 出だしは、民主党政権の混迷を「いったいだれが想像しただろうか」という無責任な感想から入ります。そんなことは分かりきっていました。渡辺治先生は政権交代直後に民主党の3つの側面を明らかにしています。それらは政権交代という目的のために、選挙に勝つために当面の団結をしていただけです。
 次に「人類史で初めて体験する厳しい事態」などと白々しくいっています。原爆の悲劇はまさに人類史上初であり、まったく予測しがたいことでした。しかし今の人口減少など少くなくとも10年前から予測されたものです。わかっていながら真剣に警鐘を鳴らすことなく見ぬ振りをしていたのは誰だったのか。そして「もう財政が持たない」とはぬけぬけとよく言うよ、といいたくなります。バブルが崩壊したときはまだ後戻りができる状態でした。それを村山政権以後、日米構造協議による公共事業の爆発的増加と金融機関への公的支援法人税と高額所得者の大幅減税、それらが今日の財政破綻を作ってきたものです。なぜ、その指摘をしないのか。もっともその時期に共産党だけが国債の乱発による50兆円の公共事業を批判していましたが、ジャーナリズムは冷ややかに見るだけでした。
 そういうこれまでの経過を一切ふれずに、財政破綻をした原因が社会保障であるとか「手厚い保護」の農業であるみたいな、わざと誤った読み方へ導くような書き方は、幇間ジャーナリズムそのものです。
そして財界とアメリカが期待するTPPを推進する姿勢を露にしています。
 恥という言葉を知っていますか、といいたくなります。
 極めつけは民主、自民両党の連合を示唆する、自殺行為にまでいきます。「朝日」は性懲りもなく、戦前の大政翼賛政治を再現しようというのでしょうか。
 「毎日」は少し控えめです。「2011扉を開こう 日本の底力示す挑戦を」という見出しは、何を言いたいのか不明です。そして浮世絵の話で半分を費やし、消費税増税を強調するだけで、あとは何を言っているのわかりません。もしかしたら恥を知っているのかな、と思いました。
 最悪の産経と読売は簡単に触れます。
 「読売」は「世界の荒海にひるまぬニッポン、大胆な開国で農業開国を急ごう」と露骨にTPPをすすめ、消費税引き上げをリードします。「外交の劣化」という意味は沖縄の基地問題で「菅首相自ら先頭に立って知事と県民を説得しなければならない」とまさに「アメリカご主人様」という売国的ジャーナリズムに恥じるところはありません。
 そして「従来の枠組みを超えた良識ある勢力の試みなら歓迎できる」とここでも大政翼賛化を進めます。
 「産経」は論説委員長の「年のはじめに『ひこばえ』に思う国家再生」です。「若水を汲み、前年の邪気をはらう」と時代錯誤の書き出しです。そして「ニッポンの芯は、皇室に代表される伝統や、勤勉・礼節といった国民精神」とまでくれば、天皇自身はきっと「それは違う」言うだろうと思います。
 財界の広報部である「日経」は「国を開き道を拓く、世界でもまれて競争力磨く志を再び」とここでもやはりTPPを強調します。農業は潰せと言うようです。しかし日本は「GDPに占める輸出の割合は10%台と、30%台のドイツ、40%台の韓国に比べ今やかなり低い」と無責任なことを言い放ちます。それではなぜ今回の世界不況・金融不況の影響が、これらの国と比べて日本は大きいのでしょう。それはまったく分析されていません。
 今日の事態を招いた、その産業構造の脆弱性を見ずに「伸びない産業よりも成長産業を後押しする」と近年の経団連会長企業である自動車、電気機器産業の旗振りをします。
 最後に少し反省もします。「保守的な経営が働き手の潜在力を殺していないか」といいます。なぜそうなっているのかを指摘しませんが、この間の企業犯罪を言っている、と良いほうにとることにします。
 「神戸」は地方紙の雄だけあって、これらの全国紙に比べれば「かなりまし」というレベルです。「自分力 流されず、自ら考える市民に」と、足元の取材から現状を解き明かします。「地域がまとまれば、行政が動き、社会が変わっていく。市民一人一人が考え、行動することで、それが実現する」とかなり重要で核心に迫った指摘です。「地域がまとまる」とはどういうことでしょう。地域住民は色々な意見の持ち主です。そんな人々が「まとまる」だけの民主主義の充実があれば、社会は変わります。
 しかし「『流されやすい』のは日本人特有の気質とはいえ、最近とくに目立つ。流布する浅はかな言葉や価値観に振り回される傾向が強くなっている」と加賀乙彦さんからの引用の形をとっているが、「誰が誰に向かっていっているのか」思い、当然それに続く反省の言葉を捜したが、それは見つかりません。
 新聞には「自らを省みて自らを律する」精神はないのか、と思います。
 最後に「赤旗」ですが、「2011年の始まり”政党らしい政党”の出番だ」は、自分のところの機関誌だから好きなことを書いていいとは思いますが、改めて「しかたないか」と思いました。私でも反省することはしないといけないと思い、それを書くときもあります。
 共産党は昨年の参議院選挙で、私から言えば「歴史的大敗」を喫しています。共産党自身もかなり真剣な分析をしようとしています。しかしそれは不十分なままに終わっているように思います。
 なのに、それもしないで「”政党らしい政党”を選ぶこと」を「心をこめて呼びかけます」とは、おいおい待てよ、といいたくなりました。
 情勢分析や他党の批判は的確だと、私は思います。ですから、それをわが身に当てて考えないと、と言っているのです。