「花咲くチェリー」文学座

 4月28日神戸演劇鑑賞会、神戸文化ホール
イギリスの「階級社会」

 文学座の財産といわれる、故北村和夫が主役を演じた名作で、50年前にロンドンで上演されたときは「爆発的人気」であったそうだ。
 この芝居を、私は機関誌の紹介通りには受け取ることができなかった。夫婦や親子といった家族関係が中心的なテーマの芝居というのはそのとおりだが、この戯曲が書かれた時代のロンドンと現在の日本の家族関係は、共通するところもあるが、やはり違うところもある。
 だから共感するところもあるが、あれ、なぜそうなるの、と思うところもある。
 そして私は、この芝居はイギリスの「階級社会」というのを頭の隅においておく方がいいと思った。
 ケン・ローチの映画は、現代を舞台にしてもはっきりと労働者階級を意識して描く。連帯とたたかいだ。まだそういう意識がある。ところが森嶋通夫先生の本を読むと、戦後のイギリス社会は階級社会の緩和の方向に推移してきている。ブルーカラーの息子が一流大学に行って高収入のサラリーマンになったり、知識人と呼ばれる仕事にも就いている。森嶋先生の岩波新書の『イギリスと日本』実証的にその変化が示されている。
 ということは、50年前は、今よりかなり厳しい労働者階級と資本家、中産階級の分離と対立があったと思われる。
チェリー夫婦はいかに
 そういう目で見ると、チェリー家は労働者階級の上の方にいる。ジムは保険会社のセールスマン、妻は専業主婦、息子と娘は専門学校などの学生のようだ。家もロンドン郊外の一戸建てである。
 ジムは妻イゾベルと出会った昔から、サマセットの話をしていた。田園地帯のうねる丘陵地にりんごの花咲く果樹園を夢見ていた。そこは彼の故郷で、いつか帰りたいという。イゾベルはそんな彼に魅力感じたという。
 確かにジムとイゾベルはちょっと不似合いだ。知的なイゾベルに対して、風采の上がらぬジム。優雅さを漂わせるイゾベルと上昇志向、虚栄心と権威主義を持つジム。ジムは田舎育ちの農業労働者の息子、イゾベルは中産階級の娘。彼らには生まれの違いがあると思う。そんな二人が出会って恋に落ち、結婚をした。
 という風に私は想像する。
淋しいジム
 ジムの仕事は保険のセールス。社会保障の充実しているイギリスだから、日本のような生命保険ではなく、損害保険だろう。資本制社会ではリスクを回避する不可欠の業務だ。船の保険が最初というようなことを聞いたことがある。
 彼はこの仕事に色々と不満を言うが、現代的な感覚で会社に使われている、と単純には決め付けられないと、私は思う。確かに資本主義社会の「労働の阻害」があり「保険の営業で客に頭を下げる」ことによる不満はあると思うが、一方では働き甲斐もあったと思う。
 彼の不満は詰まるところ、彼の評価であると思う。昇任昇給がきちんと行われていない、その責任のほとんどは上司にある、と思うのは、これはほとんどすべての時代の宮仕えの心境だろう。
 当然競争も厳しいから心の休まる暇も無いだろう。ストレスは高まる。唯一、彼を癒してくれるのはイゾベルであり、子どもたちと触れ合う家庭しかない。
 ところがこの芝居の最初から、ジムは家庭での居場所がないことを感じる。妻には心を開いて甘えることもできない。子どもには強がることでしか父親の権威を見せることができない。阿久悠「時代おくれ」は「妻には涙を見せないで、子どもに愚痴を聞かせずに」という日本の男の美学を披瀝するが、ジムはそういう「つよがり」をいう前に自分を偽って生きているように思う。
 彼はサマセットの田舎の美しい景色と裏腹に、農業労働者の苦しい生活も味わってきた。だから、彼はそこからの脱出を願い、保険業務という、時代の最先端の仕事に就き、自分たちよりも「身分」の高いイゾベルを妻に迎えることができた。しかし、それ以後は幸せの絶頂から、どんどん下落するだけの人生を送ってきた。
 誰も彼を「正当」に評価しない。彼にはとても我慢できない毎日だろう。彼の心が荒れる生活は、そんなことではないだろうか。
 サマセットの夢は、まったくの幻想で実現を願う夢などではなく、どこにも存在しない心のまほろば、現実からの逃避場所でしかない。
 ジムは自分の心を見つめることができず、火かき棒を曲げるという代替行為で自分をごまかしている。
冷淡なイゾベル
 良妻賢母の見本のように登場するイゾベルは、じつにわがままで冷淡な女だ。私がそう決め付けるのは、子どもたちのジムに対する視線だ。トムもジュディも軽蔑している、とまでは言わないが、父を軽く見ている。そう思わせるのは、彼らの母親でありジムの妻であるイゾベルの影響が大きいと思う。
 彼女はついつい子どもたちに愚痴っぽく、父の不甲斐なさを語っていたと、想像する。
 そして不器用で実直で、小心者であるジムをどこかで見限っていたのではないのか。それは、イゾベルが夢を語るジムに惹かれたといいながら、サマセットの生活など考えたことが無いのが明らかであるからだ。りんごの苗木の話を持ってきたボウマンに、まったく知らない、夫からも聞いたことも無い、という。
 さらに子どもたちに対して、お金を盗んだと決め付けて、徹底的に追及しようとする。母親はそんなものではない。母は子どもに対して愚かであり、愚かであればあるほど自分の子どもに溺れていく。
 家庭内の盗難に対して、彼女は驚愕し冷静な判断を失ったことは理解できるが、その本性において、冷淡な女という印象が残った。
 そしてジムの失業が明らかになるクライマックスで、独りよがりのイゾベルの姿が明らかになる。
 彼女は失業を告げることもできず、酒におぼれるジムの姿を情けない男としか見ていない。彼が率直に助けを求めることができない妻である自分を反省しない。小林幸子が歌う「雪椿」ではないが、「やさしさと かいしょのなさが 裏 と表に ついている そんな男に 惚れたのだから 私がその分 がんばります」という心根が無い。
 しかもどん底に落ちたジムを見捨てて出て行くなんて、どんな女だと、私は思う。イゾベルは本当に魅力的な女だ。しかし氷のような女だった。
時代の制約
 もうわかっていただいたと思うが、この芝居は人間の暖かさを描くものではない。愚かな愚かな、ごくつまらない人間を描く。しかし、そう認めれば、トムが父をかばったように、助け合う心が生まれてくるという。人間はそんなものだよという聞こえる。
 家を出るイゾベルには厳しく非難をする。ジムを死(肉体的にも精神的にも)に追いやったことは彼女だ。ジムの愚かさを私は笑えない。
 原作者ロバート・ポルトは『アラビアのロレンス』という名作映画の脚本を書いている。彼はその時代を生きる人間という視点を持っている。
 私はそう感じた。