『海霧』

 24日に神戸演劇鑑賞会10月例会で見ました。前回と打って変わって芝居らしい芝居です。いかにも民藝らしい、明治大正を生き抜いた女の人生です。樫山文枝さんが20代から70代までを演じます。

 しかし、私はこの主人公が好きになれないのです。時代の制約の中で、妻として母として精一杯生きたというのは、そのとおりですが、女としてはどうであったか、あるいは彼女は失敗から何を学んで、どのように変わっていくのか。
 そういう視点で見ると物足りない芝居でした。
 ということで、私はこの芝居全体からは、時代の流れはあっても、ダイナッミックな人生、という点ではもう一つという思いを持ちました。制約を打ち破るという、熱さがないのです。
 それはこの芝居の原作が、自伝的ということですから、彼女の実際の姿かもしれません。使用人に優しく公平に取り扱い、アイヌ人も差別しない。みんなに気配りをし、家の中を切り回す。そして「心の冷たい夫」と思っても、夫の言うことには、しぶしぶながらも従う。普通なら、いいところもあれば、物足りないところもある、と見るのかもしれませんが、私は些細なことが気になり、そして、もしかしたら私の見間違いかもしれないけれども、決定的におかしいと思うところまでも、至りました。


 主人公のどこが気に入らないか。まず娘が妊娠や育児に支障が出るような脚気を患っていることに気づかない、さらにその原因が幼い頃からの「好き嫌いが多い子ども」に育てたことです。これは母親失格と言っていいでしょう。好き嫌いが多い(1つや2つは仕方がないが)のは子どもの責任ではなく母親の責任であると私は思います。
 娘が男のように振舞ったりするのは、人それぞれでいろいろありますが、丈夫な体に育てることは、母親なら誰でも思うことです。
 それと彼女は「血のつながり」ということを気にします。東京の孫娘と暮らす家には夫と娘の写真しかありません。娘の夫、婿の写真はないのです。
 彼女の夫が何よりも店を大事にしたように、彼女は家族、それも血のつながった者を大事にしているように見えて仕方がありません。最初の、息子のように可愛がっていた男が店をやめるときも、実にあっさりしたものです。後に何かあったということもありません。
 その一方で、孫娘には異常に執着します。義理の息子とその妻が産んだ孫は、どこかに消えています。

 そして次女が石女(うまずめ)であることは、芝居ではさらりと流していますが、彼女は本当はどう思っていたのでしょう。
 この血のつながり、自分の遺伝子を持つものに対する拘り、私はこれが嫌いです。