ニッポン再興−震災後論

9月12日から15日の神戸新聞に、石井光太(作家)隈研吾(建築家)高橋源一郎(作家)園子温(映画監督)のコラムが載った。標記のタイトルだ。これを読んで、面白いなと思ったけれども、どんな風に紹介しようかと思っているうちに約1月たってしまった。まとまっていないけれども書かざるを得ない。
それぞれの分野で、震災を語り、震災後を語っている。それに対して、私が気になった、それぞれの人の言葉を紹介したい。
見出しは新聞の見出しを引用した。
石井光太―(癒えない傷)ことばが心を和らげる
遺体安置所で遺体に語りかける人を紹介している。「そうすると、安置所の雰囲気や遺族の心が本当に和らぐ」、その一方で「弱い立場で、声を上げられない人たちにとって、世の中の流れが止めようもなく自分に向かってくる状況は、恐怖でしかないでしょう」と言葉の二面性をついています。
隈研吾―(都市計画の転換)人の輪の強さ踏まえて
甚大な被害の中で「彼らの技や、その土地と築き上げてきた関係性は残った」「建築は人を巻き込むことが出来る。建築自体が共同体の共同作業なんです」と、これまでの関係性を言う。そして「20世紀の都市計画は、多くの人に家を持たせるためにどう宅地を造成するかという拡張・成長時代の期間限定のものだった。これからは、縮む時代の都市計画を考えるべきだと思う。それは自然を恐れる謙虚な計画であり、人間のネットワークが一番の強さだということを踏まえた計画だ」これが、その後の考え方だという。私はそのとおりと同意する。「自然を恐れる」という考え方こそが、その核心だと思う。今までは挑む都市計画であった。
高橋源一郎―(独裁への抵抗)一人ひとり違う言葉を持って
我々は「ずっと非常時の中にいたのに、気づいていなかった。それが誰の目にも見えるように露出した」時代に生きている。だから首相官邸前のデモがある、とみているけれども、今は「自由に言葉を発することが出来ない『空気』が作られる」つまりタブーがある。それに対しては「少数派がばらばらに自分の言葉を発するしかありません」「社会に流通していることばとは違った、オルタナティブなことば」こそが独裁ではない、「新しい社会のひな型」というのに、全面的に賛成。
自由にことばを発することが出来ない空間は、しぼみ落ちていくしかないように思う。
園子温―(福島の「情緒」記録)"対岸の火事"にしない
私はこの人の感性とあわないと思っている。この人の代表作である『冷たい熱帯魚』も『ヒミズ』も映画業界のような評価は出来ない。しかしこのコラムで言っていることは評価したい。「映画監督として『あの時、何もしなかった』と後悔したくない」というのはよくわかります。でも「『3月11日』に真剣に取り組んでいないのは映画だけ」は言いすぎでしょう。ドキュメンタリーも作られているし『この空の花』『東京家族』は向き合おうとしていると思います。それでも「原爆も原発も『もう終わったこと』『われわれ全体のことではない』とふたをしようとする人がいますが、どんどん蒸し返したい」という姿勢に全面的に賛成。だから『希望の国』は見ます。