「目を見て話せ」という人たち

 大阪府警は、杜撰な捜査で繰り返し冤罪を作り出しているが、最近ではガソリンスタンドの偽造カード事件があった。これは逮捕された男性の行動をきちんと確認しなかったという、捜査の初歩を怠ったことによる冤罪であった。
 その記事で尋問に当たった刑事が「目を見て話ができるか」といったという記事があった。
 「目を見て話をする」というのは、本当のことを言うこととつながっている、それは自分に恥じることなく話ができるという意味だろう。しかし私はそうは思わない。「目を見て話をすること」と、それらは何の関係もないと思う。
 しかし、本当のことを言う時は目を見て言うものだ、と信じている人間もいるようだ。私も信頼していた人から「目を見て話さない」と難詰された。
 私が「目を見て話をする」場合は、相手を追い詰める場合だけだ。相手と切り結ぶ覚悟を決めた場合は、そうするだろう。そうではなく、ただ単に重要なことを伝える時は、下を向いて話す。そして重要だと思うことでも、それが絶対的真理とは思わない。相対的な状況を踏まえた上での、一つの意見だと思っている。積み上げてきた事実関係の元での、かなりの確信を持った意見である。
 「目を見て話す」こうを事実なり真実なりと結びつけて言う人間は、よく似ていると思う。それは自分が正しい、相手が間違っていると思い込んでいる、ということだ。科学的に捜査をするとか、相手の意見が論理的であるとか、そういうことを考えない、検証しようとしない愚かな人間だと、私は思う。