体罰、いじめをどうしてなくしていくのか

 どうも納得がいかない、という気持ちがあります。
 大津の中学生の自殺、桜宮高校の高校生の自殺、そして女子柔道選手のJOCに対する体罰の訴えなど、いじめと体罰に対する一連の報道があって、教育分野の暴力的体質というのが明らかになりました。それらは単純な肉体に加えられるものではなく、人格を壊すようなものです。とくにアスリートたちに対して肉体的なもの以上に心身、人格を痛めつけるような目的で暴力暴言は加えられていると思います。
 そういうことから考えると、それらに関連する機関の対応を見ていて、私は違うと思っています。(橋下大阪市長の対応は論外で、改めてこのいい加減な男が嫌いになった。あんな男が好きな人が多い世の中にいささか幻滅しているのだが、私がいくら嫌いでもえらい地位に座っている人間はいるのはしかたがない)
  何がどう違うかといえば、いじめや体罰をやめさせることはもちろん大切だが、そういうことをする人間は、いくら禁じても、どのような制度で禁止しても、そういうことをすると思います。あるいは自分がそういうことをしていると感じていない者もいるかもしれません。
 ですから学外の第三者機関とか、駆け込み寺のようなものは、それはそれで必要だと思います。しかし、いくら良い制度を作っても、それを破って人格を痛めつける暴力暴言を行使する人間はいるということです。
 だから、まず最初に考えることは、いじめられているもの、体罰を受けているもの自身が、それを跳ね返すにはどうするか、ということを教えることが大事ではないかということです。
 そういう機関に助けを求めるのではなく、端的に言えば、私が思うには弱いものは団結して闘えと教えることです。もちろんその社会的な背景は、「原則的に」「基本的には」暴力は禁止、ということではなく、無条件に暴力は禁止であり、そういったことを行ったものに対する制裁があるということが前提です。